地面から生えているような

サクラ
秋の空とサクラのこずえ

この夏頃から何度か、地面から生えているような建物、というフレーズが頭をよぎった。

 

「について考えた」というほど論理的な考察ではない。

 

有名な「建築作品」でも、誰が作ったかもわからないような名もない建物でも、好きなものは好きなんだよなあ、実にいいなあと思う建物の何が好ましいってそりゃまあ、、、ええと、、、みたいな漠然とした物想いのなかでふと浮かんだような気がする。

 

 

あるいは、自分の設計する建物がどんな風になってほしいか、というと、、、まあ特に自分の様式があるわけでもないし、雑誌に載りたいわけでもないし、見たこともない造形や手法でびっくりさせたいわけでもないし(させられないし)、、ええとまあ、、、みたいな漠然とした検討のなかでも思ったような気がする。(私の頭のなかは、だいたいいつも漠然としてます。)

朝日
9月の長ーい雨の後、ひさしぶりの朝日に感激

うまく地面にランディングできた建物は、時間とともにその場所と高い親和性をもって一体化し、地面から生えたようになる。気がする。もちろん物質的な接地面の大小ではない。高床式でもよい。

(あまりカタカナ語は多用しないようにしているが、ランディング − Landing は結構好きだ。動作の対象のはずのlandがそのまま動詞になってしまっているところが、より一体感があってよい。)

などということを、漠然と思うたびに、頭のなかに浮かべていたイメージ図を、実際に描いてみた。

イメージ図
建物のランディングのイメージ図。溶けちゃってるみたいですけど。

なぜこんなことを書いているかというと、ここ数日で立て続けに2回、他人が似たような表現を使うのに触れて、その偶然のタイミングがちょっと不思議で面白かったから。

 

まず先週、打ち合わせついでに、長野の老舗の建設会社に勤めていた方の現場での経験談を興味深く聞いていたら、新入社員の時に、小諸の小山敬三美術館の現場で村野藤吾を見たんだよ、という話が出てきた。私も大好きな美術館だ、建物も、中身の絵も。

「まあーびっくりしたよー、粘土模型をヘラで削って指示してさ、それをそのときの現場所長も頭を使って偉かったよー、全部ポイントを取って型枠で再現して・・・『地面から生えたようにしてください』って言われたから板で曲線定規みたいなのを作って壁の足元にモルタルをこう引きながら塗りつけて・・・」

浅間牧場
北軽井沢への道中、浅間牧場

それからさきほどは、読んでいた本の中に。

この本は、北軽井沢の「ブックニック」という本屋さんの催しに出かけてみた際に、ふと目に止まって無性に欲しくなって買って来た。字面や装丁を見て心がぎゅっとなるほど本が欲しくなるのも久しぶりなら、建築家の著作を読むのも久しぶり。古本なので、だれかが引いた赤線が気にならなくもない。が、そうなんです!と言いたくなる記述がつづいて、どきどきしながら少しずつ大事に読んでいる。以下引用。

 

「 なにか神秘的なものを宿しているように思われる建物がある。一見、ただそこにあるだけの建物。ことさら注意を払う者もない。ところがその建物抜きには、その場所を想像することができないのだ。そのような建物はしっかりと地面に根を下ろしているように思える。ごく自然に周囲に溶けこんでいて、あたかもこう言っているようだ–−−「きみが見ているとおりが私だよ。私はここの一部なのだ」」(Peter Zumthor著 鈴木仁子訳 『建築を考える』 みすず書房)

ブックニック
ブックニック、一人だと腰が重くなるので友人親子に声をかけたら、大喜びで一緒に出かけてくれました。楽しかった。

地面がよく見える地域に来たからこそ、「地面から生えているような」というフレーズが思い浮かんだのかもしれないけれど、地面がほとんど見えない地域では、ランディングできていれば建物そのものがいわば地面で、、、ぶつぶつ。地面から生えいているような建物が、もっと時間が経って人がいなくなれば地面に戻っちゃうのが理想だけれど、、、ぶつぶつ。などと、ひきつづき漠然と思いを巡らしながら、ささやかな日々の仕事に励んでおります。